フィールドレコーディング

フィールドレコーディング(野外録音)は私の作曲には欠かせないものだ。旅先には必ずハンディレコーダーを持参し、その土地の音を録音する。相国寺の鐘の音、琵琶湖の小さな波、台湾の交通、シチリアの海鳥、ギリシャ古代アゴラを歩く亀の足音。他にもたくさんの音を集めてきた。その中から選んだものを自分の音楽の中に取り入れる。ピアノの残響音の中にうっすらと追憶のように街の音を入れると深みが増す。安易な雰囲気作りにならないように作曲家としては注意が必要である。

フィールドレコーディングの目的は大きく三つに分けられるだろう。一つ目は学術的用途として、少数民族の歌や動物の鳴き声などを録音し音声資料を作成する。次に実用的用途。演劇などのSE(効果音)として、自然音を収集する。録音したものを元の音がわからないくらいにコンピューターで加工して新しい音を作ることもある。そして最後に純粋な楽しみとしての録音である。

録音している間、じっと音をたてずに耳を澄ましているその時はとても大事な時間である。それまで聞こえていなかった音に気付き、聞こえていたはずの音も違った聞こえ方がする。蝉の声はずっとしていたはずなのに、耳に意識を集中させた途端に、足がすくんでしまうくらいに迫ってくる。また音の移り変わりも面白い。山際にある小さな湖岸でのこと。微細な波音を二つ、三つ足元で感じていると遠くで鳥の声がする。山側ではたまに枝が折れたような音。山の上の方で地鳴りのような低い音がしたと思ったら、次にイワシの大群のような風の高音が頭上を駆け回る。一連の音の流れはまるでシナリオがあるかのようである。ある音が遠ざかっていくとまた別の音があらわれ、やがて消えていく。まさに音のゆく河の流れである。

音に意識を向ける習慣がつくと、少し困ったことも起きてくる。例えば冷蔵庫など家電の音や腕時計の針音、地下鉄の轟音などが聞こえすぎてきて、疲れるのである。二十代前半はそれで苦しむこともあったが、今は音がそこに「在る」ことを認めることで、ある程度「聞かない」ようにすることもできるようになった。

文学の中の書かれた世界で耳を澄ますのもよい。例えば「更級日記」の「足柄山」からはたくさんの音が聞こえてくる。どこからともなく現れた三人の遊女が真夜中に歌う声は空に澄み渡るように響いたという。男たちの声、虫の声と火を焚く音、水の流れる音もしていたであろう。真っ暗な夜に山特有の不可解な音も作者には聞こえていたかもしれない。想像で補うばかりだが、これも一種のフィールドレコーディングと言えるのではないか。

耳を澄ます話ばかりになってしまったが、録音機が要らないというわけではない。音に聞き入り、いつの間にか何か別のことを考えはじめ内的世界へと没入してしまったとき、レコーダーは淡々と現実の音を記録してくれている。

2018年7月23日掲載

[再録]

『ベスト・エッセイ2019』(光村図書)
日本文藝家協会編
編纂委員/角田光代,林 真理子,藤沢 周,町田 康,三浦しをん

https://www.mitsumura-tosho.co.jp/shohin/essay/book_es2019.html