食べること

時折、仕事中に無性に台所に立ちたいと思うことがある。料理が得意というわけではないが、何か作りたくなるのだ。以前は買い物に行って食品を見ながら何を作るか決めてみたりしたが、そうすると一から材料を買い集めなければならず、無駄が多くなる。今は少し賢くなって(当然のことなのだが)、家にどんな食材があるかを見つつ、自分は何を作りたいのかを考えるようになった。

下手なりにもごくたまに奇跡を起こすこともある。一度、本当に美味しい中華粥が出来たことがあった。まさに味をしめた私は翌朝から毎朝、中華粥を作った。作りすぎて妻に飽きられた。いわゆるビギナーズラックだったようで翌日からの味は奇跡には至らなかった。それでもある一定のレベルは保てるようになった。

最近はメキシコ料理のタコスを作ることが楽しみである。妻にアドバイスを受けながら進めていく。教えてもらったことは小さな手帳に書いて、戸棚の上に置いている。そこには土鍋での米の炊き方や生姜の剥き方など「レシピ」までは至らない基本的なことばかりが書いてある。

タコスにおける私の唯一の強みは、二年前に出張で行ったメキシコで現地の人たちに連れられていろいろなタコスを食べさせてもらったことだ。私がぎこちなくタコスをつまむと、同席していたカタリーナという女性が、こう食べるのよ、とタコスを片手ですっとつまみ、顔を傾けて横からガブリと食べてみせてくれた。そして今度は私が、こう食べるんだよ、とまるで南アメリカ大陸から食文化を最初に持ち帰ってきたかのように食卓で披露している。

旅先で食べたものを家で作って食べることは、なかなか面白い。一緒に旅したのなら、尚更その食事の周辺の情景までが浮かび上がり、共有できる。そして大げさではなくその国の文化や歴史などについて新しい視点が得られるように思われる。タコスは私の家の料理のレパートリーとして定着しつつある。

食事がより楽しくなったのは三十代に入ってからだ。素材そのものの味、味の重なりや時間とともにする変化、そして盛り付けの効果に気づき始めたのだ。食材の産地や目の前にある料理がどのような文化圏に属するかを考えたりすることに興味を持つようになった。すると記憶の奥にあった食事の場面がいくつも思い出された。祖母がよく「いろんなものを食べなあかん」と言っていたのは、栄養のために何品目も食べなさいという意味だけではなかったかもしれない。食べられないことの恐ろしさが分かるようになってきた。故水木しげる先生の「戦争はいけません。腹が減るだけです」という言葉の本質へ漸近線上で少し近づけるのではないかと思った。

音楽が料理に例えられることは多々ある。音楽にとどまらず、耳を澄ませばそれまで気づかなかったたくさんの音が立ち現れてくる。目の前の食べ物をより深く味わうことを知れば、漢詩に書かれているような遙か昔の世界、夜に琴を鳴らす静かな情景なども文字通り味わえるような気がする。

 

2020年3月2日掲載