音と記憶

子どもの頃、長い夏休みほど幸せなものはなかった。何かが始まるような明るい高揚感から、お盆の少し不安になるような不思議な感覚、そして感傷的になる秋の訪れ。私にとっての夏はまるで別世界の「ひとつのおはなし」の中を冒険するようであった。記憶の中に多くの夏の音が鳴っている。その中でもお盆に祖母の家で聞いた音は印象的だった。

家は高台の上にあって、下には田畑が広がっている。夜に二階で窓を開けたまま布団に寝転んでいると、深夜に涼しい風とともに、奇妙な音が聞こえてきた。しばらくしてそれがラジオだとわかったが、慎重に耳を澄ましてやっと少し内容が聞き取れるだろうかという絶妙なノイズの混ざり具合だった。どうしてこんな夜中に聞こえて来るのか、あれこれ考えているうちに眠ってしまった。翌朝祖母に尋ねるとそれはイノシシ除けに畑に設置してあるラジオだという。

あの夜のことを思い出すと必ず「闖入(ちんにゅう)」という言葉が一緒に浮かんでくる。思いがけない夜の音が窓から突然入ってきた。虫の声もしていたはずだが、全く覚えていない。原民喜の「夏の花」で出会って以来、一度も使ったことがない熟語であったが、この音体験で私の語彙の中に入ったような気がする。

幼少の頃はお盆がどういう期間なのかが分からなかった。ただこれを過ぎたら海には連れていってもらえないという認識だった。大人になると、懐かしい匂いがする気がしたり、忘れていた記憶をよく思い出す時期になった。先に書いた少し不安になるような不思議な感覚は今でも続いている。

月日を経て、生活も変わっていくと、故人と一緒に過ごした時間は日常生活の「いま」から切り離されて過去の世界でふわふわと水面を漂っているようだ。その記憶の中の記憶、例えば祖母が話してくれた高祖父の話などはさらに深い階層の中で漂っている。そんな日常空間から遠く離れたところにあるものを、音が一瞬ですぐ身近に運んでくれることがある。

暗い夜の山道を月明かりを頼りに急ぎ足で歩いていると、急に前方に男が見えた。視界は悪いのに驚くほどはっきりと男の背中の大きく書かれた「越」という文字が見える。こんなによく見えるのはおかしい、これは狐か狸に違いないと思い、マッチを擦った。その途端、男の背中はすっと消えて、山道にたった一人になったという。

このマッチの音は自分の経験によって頭の中に生成されているわけだが、写真も見たこともない高祖父と私、百年以上前のあの夜の山道と私の部屋を繋いでいるのはこのマッチの音である。音というのは時折、大げさにいって時空を超えるような感覚を与えてくれる。これが音/音楽の大きな魅力のひとつであり、そういった音楽を作りたいと願っている。

2018年9月13日掲載