音楽と教育

日々学ばなければいけないことは絶えない。作曲技法を磨くのはもちろん、機材やソフトウェアなど道具の使い方から、他のジャンルの人と仕事とするときの習慣や作法なども学ぶ対象である。関わる作品の背景も知っておいた方がよいことが多い。そのために知識は必要である。

音楽大学出身ではないので、大学で作曲を学ぶ機会は全くなかった。中学生の時に作曲家になりたいと思い、音大を目指してレッスンに通っていたが、当時自分がいた音楽教育環境が肌に合わず、やめた。

教育学部生涯教育学講座に所属していたので、人間は一生涯学び続ける存在、あるいは学べる存在だという考え方を勉強できたのはよかった。また同時に教育ということを広義の意味で捉えられるようになったのも有り難かった。学校以外のあらゆる場所にもたくさんの教育がある。上から下へのベクトルとしての教育ではなく、外の世界と自分との交信である。耳を澄まし、音の動きや音色に意識を向けること。それまで気づいていなかった音を聴くことも教育として捉えることができる。

広義の音楽を作るには教育学部に進んだのはよかったと思う。旋律と和声があるいわゆる楽曲も、旋律も展開もない、音がただ持続する楽曲もどちらも作っていて面白い。たとえば空調の音をどうしたら美しく響かせることができるかを考えることも作曲である。

正直言うと、大学で専門的に勉強したいと思うこともあった。そうすれば即戦力がつき、時間も省ける。ただ自分はそれに向いておらず、遠回りだけれども別の景色を見て音楽・音について考えられた、と思うようにしていた。

小学校高学年の頃、私は国語の勉強として父の前で寺田寅彦の随筆を朗読させられており、その時に出てきた「甲板(かんぱん)」という言葉が読めなかった。約二十年後、ナポリからシチリア島に渡る船で突然その言葉を思い出した。その瞬間、目の前の風景や海鳥の鳴く声、船上の人々の声がどれほど美しく感じられたか。甲板という言葉は長い年月を経て、本当の意味で私の語彙となった。時間がかかることは無駄ではないと信じている。

教育的な、あるいは教育のための音楽を作る意欲はあまりないが、別の文脈で捉えられることは拒否しない。私のある楽曲が、某大学の心理療法に使われることもあった。癒しのために意図して作った音楽ではないが、それで少しでも治療に効果があるのであれば嬉しい。心理療法についても少し学べた。

作曲を「コンポジション」と言い換えれば、それはすなわち構成である。音をどのように配置するか、先に述べた空調の音がその例である。音と音、あるいは音と言葉、映像などとの関係性で作品が生まれる。もう少し広く考えれば、音をあるいは音楽をどのように社会の中で位置づけるかを考えること、それも広義の意味の作曲なのである。

 

2019年1月10日掲載