フェスティーナ・レンテ

八月に入って約二週間、妻とローマに滞在した。借りたアパートはヨーロッパの典型的な石造りの五階建で、地上から屋上まで見事な蔦(つた)が掛かっており、藤の花が咲いている。小さな蜂が蜜を吸いに来ていた。居間にはベヒシュタイン製の古いグランドピアノがある。午前九時から夜九時まで、シエスタ(昼休憩、昼寝の時間)の午後二時から四時を除いてはいつでも弾いてよかった。近くにはサンタンジェロ城があり、この城はバチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂と城壁上の道と地下道で繋がっている。アパートにエアコンがないことに出発の前夜に気づき少し不安に思ったが、それほど苦にはならず、むしろ健康的な日々を過ごせた。早朝の涼しいうちに作曲と考え事をして、ピアノを弾ける時間になると録音をする。昼食に出たその足で街中に向かい、史跡を訪ねる。夜にはその日に行ったところを調べる。毎日二万歩ほど歩いた。

音楽の守護聖人とされる聖セシリアで有名なサンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会を訪れたとき、ボランティアのおばあさんに片言のイタリア語で私が作曲家であることを伝えると、ちょっと待って!と慌てて奥から聖セシリアのしおりを持って来てくれた。

八月十五日には、祖父が遺した手記を読み返した。祖父は戦時下の臨時措置で高等学校を二年半で卒業。医科大学に入ると半年で基礎医学の大半の講義が終わらされ、二年生になった昭和二十年六月から和歌山連隊に入隊せよとの令状が届いた。出発の朝、病床の祖父の父が嗚咽しているのを玄関で聞いたという。それが最後になった。祖父は営門に就くも、戦闘に参加することも空襲に合うこともなく終戦を迎えた。その後、医師となり九十歳を越えて亡くなる二週間前まで働いた。祖父はいつも笑顔で大人しく、優しかった。生きて働けることを心から喜び、従事していた。働くということについて、まさに祖父の背中は教えてくれたと思う。

仕事が一段落したので、フィレンツェへ向かった。ガリレオ・ガリレイの細く枯れた右中指やダンテのデスマスクや埋葬地などを見て、彼らがかつてが存在していたことを実感した。ギリシャに行ったときも感じたが、現在と歴史が地続きになっていることに感銘を受けた。またヴェッキオ宮殿で以前から気に入っていた「FESTINA LENTE」(フェスティーナ・レンテ) という格言が刻まれた扉に出会えたのが嬉しかった。エラスムスの『格言集』にも収録されており、「ゆっくり急げ」と一般的には訳されているが、様々に解釈することができる。凄まじい速さで流れ、更新されていく文字や映像などに惑わされることなく、自ら吟味すること。しかし、進んでいくこと。というようにも捉えられるだろうか。

毎年秋は忙しくなるが、その前にこの言葉に再度出会い、祖父のことを思い出せたことでよい心の準備ができた。 こうして働けることの幸せを享受し、あと半世紀以上私も働き続けたいと願っている。

 

2019年9月5日掲載