ESSAY 2018
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Dec 31, 2018

「音楽の旅」

音楽は様々なところへ私を連れて行ってくれる。新しい場所、文化、言葉、人々。その出会いの中でまたインスピレーションを受け、音楽を書く。舞台音楽や展覧会などの音楽を作ることが多いため、曲を作って終わりではなく、実際の会場でどのように鳴らすか、音量やスピーカーの位置などを決めるところまでを担当する。ノートパソコンがあれば大体の作曲ができるので、稽古場、劇場、ホテルが仕事場になる。

今年の秋は、パリとメキシコシティ、二つの国立劇場で仕事をする機会に恵まれた。前者は劇作家・演出家の野田秀樹氏率いるNODA・MAP「贋作 桜の森の満開の下」、後者はベルギー在住の振付家ダミアン・ジャレのダンス作品「Omphalos(オンファロス)」(音楽は坂本龍一氏と共同制作)の上演である。

「桜の森~」は野田氏の代表作であり、これまで何度も再演されてきた名作である。昨年は歌舞伎座にて歌舞伎版が上演され、このときも作曲で参加したがメインテーマの音楽は初演からの選曲を踏襲するものであった。今年は音楽を全て一新して、新たに曲を書き下ろした。本作は十一月下旬まで東京芸術劇場で上演されている。
これまで演劇とそれほど関わりはなかったが、野田作品との出会いによって、絶え間なく溢れる言葉とともに舞台の上だけで繰り広げられる世界、まさに演劇空間の、深く、ときには恐ろしくもある魅力を知った。言葉に音楽が重なっていく快感はたまらない。また稽古を終えるときに「今日はこれでトリます」という言い方をするが、この一つのセンテンスさえ私には新鮮だった。

一方、「オンファロス」は長年行きたかったギリシャへの旅を実現させてくれた。アテネより北にあるデルフォイの神殿にある石「オンファロス」を見に行ったのだ。ギリシャ神話によると、ゼウスが放った二羽の鷹が出会ったところを世界の中心として、この石が置かれている。ギリシャ語では「へそ」という意味らしい。デルフォイへの道中、オイディプスが実の父を知らずに殺してしまった場所の近くをバスで通ったが、神話の世界と自分が生きる現代世界が陸続きであるような気がして感動した。

ダンス作品「オンファロス」はメキシコの国立ダンスカンパニーの二十人のダンサーがパフォーマンスを繰り広げる。「メキシコ」は先住民族の言葉で「月のへそ」を意味するらしい。メキシコの人たちはとにかく優しく、毎日タコスやコーヒー、時には非常に強いお酒のメスカルをご馳走してくれた。メキシコシティは標高約二千三百メートルに位置するため、やや動悸を感じ、緊張もあって苦しいときもあったが、彼らの明るい性格と街の建物の強くて美しい色彩によって元気づけられた。

今回もモバイルレコーダーを持参していろいろな音を録音した。これらの音を使って新しい音楽を作り、また旅に出るのを楽しみにしている。

(京都新聞夕刊「現代のことば」第3回:2018年11月13日掲載)

 

 

「お囃子の魅力」

能との出会いは能舞台ではなく、学校であった。中学一年生から高校三年生まで週に一度能楽の授業があり、卒業の際には「小袖曽我」を舞ったと思う。謡と仕舞が中心であったため、能舞台でお囃子を聴いたときは強い色彩と、感じたことのない興奮を感じた。

十数年が経ち、全四幕(四日間)上演時間八時間の芝居、ポール・クローデル作、渡邊守章翻訳・演出『繻子の靴』の音楽を担当する機会に恵まれた。この作品で故藤田六郎兵衛先生とご一緒できたのは本当に幸せであった。

二日目第十三場「二重の影」で、決して結ばれない禁断の恋に落ちた主人公の二人、ロドリッグとプルエーズの影がモロッコの壁で重なりあうシーン。渡邊先生から能管を入れたいと言われ、とても頭を悩ませた。能管の旋律を書き、和声付けをして伴奏をつけようものなら必ず失敗する。私は、空間配置としてのコンポジションを試みることにした。

あらかじめ録音した六郎兵衛先生の笛を逆再生したものを影と見立て、舞台上で六郎兵衛先生は自らの影と共演する。そして地鳴りのような低音など電子音を重ねていく。音同士は「濁る」こともなく、またどちらかが背景となることなく共存していた。

お囃子は空間を作り上げる。能舞台が極度に簡略化されているためだろう。能管のヒシギによって、舞台と客席は一瞬にして違う世界へと変化し、鼓と声によって時間もゆっくり変容していく。観客の私は遠い昔に思いを馳せる。遥か彼方の音も聞こえてくるようだ。中世ではどんな風に響いていたのだろうかなど、いろいろなことを想像する。やがて聴いているのは本当に「いま」の音なのか、という問いを持つ。そして名手が先人たちの芸を厳格に継承しているからこそ、先代たちの音が背景にあり、「遠い昔の音」が聞こえるのではないだろうかという考えに至る。

これほどまでに音響的に没入でき、かつシンプルな編成、残響に依存しない音楽は他にあるだろうか。

(京都芸術劇場ニュースレターvol.42(2018.1-2019.3):2018年10月7日執筆)

 

 

「音と記憶」

子どもの頃、長い夏休みほど幸せなものはなかった。何かが始まるような明るい高揚感から、お盆の少し不安になるような不思議な感覚、そして感傷的になる秋の訪れ。私にとっての夏はまるで別世界の「ひとつのおはなし」の中を冒険するようであった。記憶の中に多くの夏の音が鳴っている。その中でもお盆に祖母の家で聞いた音は印象的だった。

家は高台の上にあって、下には田畑が広がっている。夜に二階で窓を開けたまま布団に寝転んでいると、深夜に涼しい風とともに、奇妙な音が聞こえてきた。しばらくしてそれがラジオだとわかったが、慎重に耳を澄ましてやっと少し内容が聞き取れるだろうかという絶妙なノイズの混ざり具合だった。どうしてこんな夜中に聞こえて来るのか、あれこれ考えているうちに眠ってしまった。翌朝祖母に尋ねるとそれはイノシシ除けに畑に設置してあるラジオだという。

あの夜のことを思い出すと必ず「闖入(ちんにゅう)」という言葉が一緒に浮かんでくる。思いがけない夜の音が窓から突然入ってきた。虫の声もしていたはずだが、全く覚えていない。原民喜の「夏の花」で出会って以来、一度も使ったことがない熟語であったが、この音体験で私の語彙の中に入ったような気がする。

幼少の頃はお盆がどういう期間なのかが分からなかった。ただこれを過ぎたら海には連れていってもらえないという認識だった。大人になると、懐かしい匂いがする気がしたり、忘れていた記憶をよく思い出す時期になった。先に書いた少し不安になるような不思議な感覚は今でも続いている。

月日を経て、生活も変わっていくと、故人と一緒に過ごした時間は日常生活の「いま」から切り離されて過去の世界でふわふわと水面を漂っているようだ。その記憶の中の記憶、例えば祖母が話してくれた高祖父の話などはさらに深い階層の中で漂っている。そんな日常空間から遠く離れたところにあるものを、音が一瞬ですぐ身近に運んでくれることがある。

暗い夜の山道を月明かりを頼りに急ぎ足で歩いていると、急に前方に男が見えた。視界は悪いのに驚くほどはっきりと男の背中の大きく書かれた「越」という文字が見える。こんなによく見えるのはおかしい、これは狐か狸に違いないと思い、マッチを擦った。その途端、男の背中はすっと消えて、山道にたった一人になったという。

このマッチの音は自分の経験によって頭の中に生成されているわけだが、写真も見たこともない高祖父と私、百年以上前のあの夜の山道と私の部屋を繋いでいるのはこのマッチの音である。音というのは時折、大げさにいって時空を超えるような感覚を与えてくれる。これが音/音楽の大きな魅力のひとつであり、そういった音楽を作りたいと願っている。

(京都新聞夕刊「現代のことば」第2回:2018年9月13日掲載)

 

 

「フィールドレコーディング」

フィールドレコーディング(野外録音)は私の作曲には欠かせないものだ。旅先には必ずハンディレコーダーを持参し、その土地の音を録音する。相国寺の鐘の音、琵琶湖の小さな波、台湾の交通、シチリアの海鳥、ギリシャ古代アゴラを歩く亀の足音。他にもたくさんの音を集めてきた。その中から選んだものを自分の音楽の中に取り入れる。ピアノの残響音の中にうっすらと追憶のように街の音を入れると深みが増す。安易な雰囲気作りにならないように作曲家としては注意が必要である。

フィールドレコーディングの目的は大きく三つに分けられるだろう。一つ目は学術的用途として、少数民族の歌や動物の鳴き声などを録音し音声資料を作成する。次に実用的用途。演劇などのSE(効果音)として、自然音を収集する。録音したものを元の音がわからないくらいにコンピューターで加工して新しい音を作ることもある。そして最後に純粋な楽しみとしての録音である。

録音している間、じっと音をたてずに耳を澄ましているその時はとても大事な時間である。それまで聞こえていなかった音に気付き、聞こえていたはずの音も違った聞こえ方がする。蝉の声はずっとしていたはずなのに、耳に意識を集中させた途端に、足がすくんでしまうくらいに迫ってくる。また音の移り変わりも面白い。山際にある小さな湖岸でのこと。微細な波音を二つ、三つ足元で感じていると遠くで鳥の声がする。山側ではたまに枝が折れたような音。山の上の方で地鳴りのような低い音がしたと思ったら、次にイワシの大群のような風の高音が頭上を駆け回る。一連の音の流れはまるでシナリオがあるかのようである。ある音が遠ざかっていくとまた別の音があらわれ、やがて消えていく。まさに音のゆく河の流れである。

音に意識を向ける習慣がつくと、少し困ったことも起きてくる。例えば冷蔵庫など家電の音や腕時計の針音、地下鉄の轟音などが聞こえすぎてきて、疲れるのである。二十代前半はそれで苦しむこともあったが、今は音がそこに「在る」ことを認めることで、ある程度「聞かない」ようにすることもできるようになった。

文学の中の書かれた世界で耳を澄ますのもよい。例えば「更級日記」の「足柄山」からはたくさんの音が聞こえてくる。どこからともなく現れた三人の遊女が真夜中に歌う声は空に澄み渡るように響いたという。男たちの声、虫の声と火を焚く音、水の流れる音もしていたであろう。真っ暗な夜に山特有の不可解な音も作者には聞こえていたかもしれない。想像で補うばかりだが、これも一種のフィールドレコーディングと言えるのではないか。

耳を澄ます話ばかりになってしまったが、録音機が要らないというわけではない。音に聞き入り、いつの間にか何か別のことを考えはじめ内的世界へと没入してしまったとき、レコーダーは淡々と現実の音を記録してくれている。

(京都新聞夕刊「現代のことば」第1回:2018年7月23日掲載)

 

[再録]

『ベスト・エッセイ2019』(光村図書)
日本文藝家協会編
編纂委員/角田光代,林 真理子,藤沢 周,町田 康,三浦しをん

https://www.mitsumura-tosho.co.jp/shohin/essay/book_es2019.html