ESSAY 2019
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Dec 31, 2019

「並走する時間」

東京へ八月末から移動して、劇作家野田秀樹氏が率いるノダマップの新作『Q』(キュー)の稽古に参加した。今回はロックバンド「QUEEN」(クイーン)が公認で音楽担当のため、昨年と違って新作音楽を書き下ろすことはなく、名盤『A  Night  At  The  Opera』に収録されている楽曲が使われた。ただ楽曲を使うだけではなく、「ここでしか聴けない特殊な使い方」をプランするという仕事であった。改めて何度もアルバムを聴くと、細部には波のきらめきのように、アイディアとセンスが散りばめられていた。本作品は十二月中旬まで上演されている。

稽古の合間に、高谷史郎パフォーマンス作品『ST/LL』(スティル)の公演のため香港へと向かった。デモ隊と警察との衝突のため公演が危ぶまれていたが、劇場周辺はデモ活動があまり行われていない地域であったので、上演することができた。ホテルと劇場間はバス移動のみで、騒動に巻き込まれないために白もしくは黒の洋服を着て街を歩かないようにと劇場スタッフには繰り返し注意された。週末には混乱が激化したが、無事予定通り帰国できた。

並行してファッションブランド「コム・デ・ギャルソン  ジュンヤワタナベ」のパリコレクションでのショーの音楽を作っていた。パリには行かずに楽曲を送り、ショー当日の朝まで修正を重ねた。

プロジェクトが同時期に重なってくると時間の割り振りよりも、頭の切り替えが難しくなってくる。気分転換に映画やドラマを観ることもよくあるが、つい音がどのように使われているかに意識が集中してしまって疲れてしまうことがある。

今回の出張中は、洋画家の小出楢重やイタリア文学者の須賀敦子の随筆を一編ずつ寝る前に読んだ。須賀の文章は、私の知らないイタリアの風景を浮かび上がらせ、また今年夏に行ったローマの思い出をも呼び覚ませてくれた。それまで頭の中でしつこく繰り返し流れていた音楽はいつの間にか消えていた。

メッスというフランスの都市で、雲に覆われた冬に展覧会の設置作業に仲間たちと取り掛かっていたときは谷崎潤一郎『細雪』を読んでいた。毎日少しずつ完成へと近づく現場と物語の中で進む四季折々の出来事。この二つの時間の並走は心に余白をもたらせてくれた。

読書中にはいろいろなことが起こる。情景や音が浮かぶ、文体の美しさや技巧に感嘆する、違うことを考えてしまってただ目が文字を追っているだけのときがある。その時間は流れているのか、流れていないのか、どちらとも言えるのかもしれないが、現実とは違う別の世界がある。考える時間であり、考えない時間でもある。

どんなに好きな音楽でも、また心を込めて作った曲でも、あまりに繰り返し頭の中で鳴ると嫌いになってしまいそうになる。そうならないためにも、本を読むことで一度頭の中の音を止める。そしてまた次の仕事に取り掛かる。

(京都新聞夕刊「現代のことば」第9回:2019年11月8日掲載)

 

 

「フェスティーナ・レンテ」

八月に入って約二週間、妻とローマに滞在した。借りたアパートはヨーロッパの典型的な石造りの五階建で、地上から屋上まで見事な蔦(つた)が掛かっており、藤の花が咲いている。小さな蜂が蜜を吸いに来ていた。居間にはベヒシュタイン製の古いグランドピアノがある。午前九時から夜九時まで、シエスタ(昼休憩、昼寝の時間)の午後二時から四時を除いてはいつでも弾いてよかった。近くにはサンタンジェロ城があり、この城はバチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂と城壁上の道と地下道で繋がっている。アパートにエアコンがないことに出発の前夜に気づき少し不安に思ったが、それほど苦にはならず、むしろ健康的な日々を過ごせた。早朝の涼しいうちに作曲と考え事をして、ピアノを弾ける時間になると録音をする。昼食に出たその足で街中に向かい、史跡を訪ねる。夜にはその日に行ったところを調べる。毎日二万歩ほど歩いた。

音楽の守護聖人とされる聖セシリアで有名なサンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会を訪れたとき、ボランティアのおばあさんに片言のイタリア語で私が作曲家であることを伝えると、ちょっと待って!と慌てて奥から聖セシリアのしおりを持って来てくれた。

八月十五日には、祖父が遺した手記を読み返した。祖父は戦時下の臨時措置で高等学校を二年半で卒業。医科大学に入ると半年で基礎医学の大半の講義が終わらされ、二年生になった昭和二十年六月から和歌山連隊に入隊せよとの令状が届いた。出発の朝、病床の祖父の父が嗚咽しているのを玄関で聞いたという。それが最後になった。祖父は営門に就くも、戦闘に参加することも空襲に合うこともなく終戦を迎えた。その後、医師となり九十歳を越えて亡くなる二週間前まで働いた。祖父はいつも笑顔で大人しく、優しかった。生きて働けることを心から喜び、従事していた。働くということについて、まさに祖父の背中は教えてくれたと思う。

仕事が一段落したので、フィレンツェへ向かった。ガリレオ・ガリレイの細く枯れた右中指やダンテのデスマスクや埋葬地などを見て、彼らがかつてが存在していたことを実感した。ギリシャに行ったときも感じたが、現在と歴史が地続きになっていることに感銘を受けた。またヴェッキオ宮殿で以前から気に入っていた「FESTINA LENTE」(フェスティーナ・レンテ) という格言が刻まれた扉に出会えたのが嬉しかった。エラスムスの『格言集』にも収録されており、「ゆっくり急げ」と一般的には訳されているが、様々に解釈することができる。凄まじい速さで流れ、更新されていく文字や映像などに惑わされることなく、自ら吟味すること。しかし、進んでいくこと。というようにも捉えられるだろうか。

毎年秋は忙しくなるが、その前にこの言葉に再度出会い、祖父のことを思い出せたことでよい心の準備ができた。 こうして働けることの幸せを享受し、あと半世紀以上私も働き続けたいと願っている。

(京都新聞夕刊「現代のことば」第8回:2019年9月5日掲載)

 

 

「ことばの響き」

新作の音楽制作に取り掛かっている。手を動かして作曲する前の、さらに構想を練る以前。「こういう感じ」の音楽を作りたいという漠然とした状態が最初はしばらく続く。舞台や映像の音楽依頼だとテーマなどがあらかじめ設定されていることが多いので、音楽の方向性は決めやすいし、調べるものも自ずと決まってくる。しかしソロ作品の場合は自分でテーマを設定しなければならない。かつ、そのテーマは本当に自分がしっくりきているものでないといけない。こういう音楽を作ろう!と意気込んで作り始めても、これは自分の本当に作りたいものかという疑問がうまれ、手が止まってしまうことも少なくない。深いところで流れている地下水脈のような欲求に耳を傾けながらじっくり時間をかけて自分の求めているものを探っていく。

曖昧でフラジャイルな「こういう感じ」が弾けて消えてしまわないように、本を読んだり、映画や展覧会を観たり、音楽を聴いたりして創作意欲を増幅させる。意識的にいろんなものに触れるようにするが、ふとしたことばの響きにもインスパイアされることもある。

五月にダムタイプ高谷史郎さんの舞台作品「ST/LL」(スティル)の上演のため、シンガポールへ行った。この作品は二〇一五年にフランスのル・アーブルで制作したもので、音楽は坂本龍一氏、南琢也氏と私の三人が担当している。

シンガポールには中華系、マレー系、インド系などの人たちがいて、その多くが母国語と英語の二カ国語を話す。街中の表記は英語、中国語、マレー語、タミル語などが並列している。ガムの持ち込みやゴミのポイ捨てなどは厳しく禁止されており、違反すると罰則がある。場所によっては飲み物も禁止されているので、街を歩くとき少しだけ緊張した。中心地には巨大なビルがいくつも並んでいて、勢いが感じられた。そんな中で、文化も宗教も違う人たちが一緒に住んでいるのがとても不思議に思えて、また興味を持った。

帰国日にはマレー系の女性劇場スタッフが車で空港まで送ってくれた。劇場で上演の準備をしている期間がラマダーン(断食月)だったため、イスラム教徒の彼女は日本からきた我々と昼食を一緒にすることはできなかったと言った。互いの文化や生活の話をしていると、私はこの国の多文化の中にほんの少しだけ入ることができたような気がした。そして会話の中で何度も出てくる「Malay」(マレー)という発音が心地よく、車窓から入るシンガポールの明るい日差しと合わさり、印象に残った。短い滞在中の出来事や考えたことの記憶は、このことばの響きに包まれて日本に持ち帰られたような気がする。

少し方向性が定まってくると、次はピアノを弾いて譜面を書いたり、音素材を集めてコンピューターで加工したりスケッチを重ねる。出来てきた音と「マレー」ということばの響きの中に私が感じたものとに、どれだけ客観的な関連があるかはわからないが、この間を行き来しながら完成を目指している。

(京都新聞夕刊「現代のことば」第7回:2019年7月9日掲載)

 

 

「まっすぐに伝わるもの」

京都国際写真芸術祭キョウトグラフィの関連企画として、亡き祖母が一九六八年に欧米を旅したスライド写真と私の音楽の展覧会「Wind Eye 1968」を催した。タイトルは「窓」を意味する古い英語である。壁に投影されたスライドが一九六八年の世界を覗きこむ窓のように感じられるからだ。

展覧会準備の最中に、この旅行を撮影した8ミリフィルムも数本出てきたので現像し、初めてその中身を見た。祖母は、医師の夫(祖父)の視察旅行に同行していたため、病院関係者が出発の見送りにきているところから始まり、飛行機から見下ろした風景、モスクワの病院やヨーロッパの各都市の風景などが収められていた。実のところ、一九六八年に旅したという記録がなく、母の記憶を頼りにしていたのだが、ナポリのヌオーヴォ城広場の植木が「1968」と刈られていたので確認が取れた。

祖父は私が生まれる半年前に亡くなっていたため、祖父が動く姿を見たのは初めてだった。祖父は律儀な人だったらしく、毎日、始業よりも相当早く病院へ行き、診察室の掃除、それから屋上で剣道の素振りをしていたという。昼食には英字新聞を読み、コーヒーを飲む。夜にはたとえ来客があっても決まった時間になると寝室へと行く。こういった話を親戚などから聞いて想像していた人物像と、音のないフィルムの中で動く祖父はぴたりと一致していた。

先日、奈良県の談山(たんざん)神社で行われた能を観に行った。石舞台古墳を過ぎて山の中へと入って行く。この辺りは中大兄皇子と中臣鎌足が大化の改新にむけて話し合いを行った場所として知られ、能楽を大成した観阿弥・世阿弥の本拠地であったらしい。以前にもここのお堂の中で能を観たことがあるが、今回は野外の特設ステージで演目「翁」と「百万」が上演された。観世清和氏、野村萬斎氏、片山九郎右衛門氏や大倉源次郎氏、亀井広忠氏など名だたる出演者が集った。

山の響きは美しかった。笛と鼓などお囃子は前方の舞台上から聞こえてくるのであるが、反射音が後方からやってきて聴衆を包みこんだ。電気的な音響拡張はもちろん一切ない。シテ方の面(おもて)の中から発せられる声は違う世界の穴から聞こえてくるようだった。そして鼓の音が山から山へと、まさに響き渡っていくのがよくわかった。そこに鶯の鳴き声や風の音が入る。中世の人たちもきっとこのような音を聞き、名人芸に酔いしれただろうと思った。

ものごとが伝わる過程には常に変化が伴う。伝統と言われるものも元を辿ってみれば途中で全く新しい要素が加えられていたり、改変されていることは多い。しかし一方で「まっすぐ」に伝えられ、今を生きる私たちの前に立ち現れるものがある。それは本質と呼ばれるものだろうか。このことをフィルムの中の祖父の姿と談山神社での山に響くお囃子の音は教えてくれた。

(京都新聞夕刊「現代のことば」第6回:2019年5月13日掲載)

 

 

「音の質感」

一九六八年、祖母は医師であった夫の視察旅行に同行し、最初で最後の海外旅行に出かけた。パリ、ベルリン、ローマ、コペンハーゲン、モスクワ、ジュネーブ、ニューヨーク、ハワイなどを周る世界旅行であった。各地で撮影した写真フィルムが、百枚ほど残っている。現像された写真としてではなく、映写機に入れて投影して鑑賞する写真フィルムである。祖母はカメラが趣味というわけではなく、九十三歳で亡くなるまでカメラを構えている姿を一度も見たことはない。祖父母自身が映っているのはわずかで、ほとんどが風景と人々の写真である。

おそらく小学校へ上がる前だろうか、リビングの壁にミノルタ社の小さな映写機で投影して見せてくれたのを憶えている。モスクワの病院で働く女性看護師や待合室でカードゲームをする男性たち。ソファに座る少女。街中をおしゃれな格好で並んで歩く三人の女性。晩年の数年間、ほぼ毎週会いに行き、入院してからもお見舞いによく行き、話をしていたのにも関わらず、この旅行の話を聞くことは結局なかった。

カラーフィルムの色は、幼い自分にとって最初に身近に感じた「世界の色」であった。モノクロではなく、普段見ていたカラー写真でもない独特の色合い。映写機のレンズのピントが甘いせいか、少しぼやけていてそこに映っているものよりも色へと意識は向いた。

「音の質感」を音楽のテーマの一つにしているのは、このときの体験によるのかもしれない。例えばピアノを録音するとき、コンピューターへと高音質で録音するのが普通であるが、古いカセットレコーダーに録音することで、味わいのある質感が得られる。懐かしい音が欲しいのではなく、その質感が欲しいのだ。また自然や街の音を集めるフィールドレコーディングも、それらを重ねて同時に再生すると、複雑な音の聞こえ方がする。人の声が一人だと内容まで理解でき、声色まで分かるが、何百人同時に話すとガヤガヤと表現されるように、塊としての音になるのに近い。音がいくつも重なっていくと地層の模様のようである。こうして得られる音響のような質感を求めている。

両親が共働きであったので、幼少の頃は本当によく祖母と過ごしていた。桃太郎やサルカニ合戦に始まり、家に泥棒が入った話や空襲で失った大事な万年筆の話など多くの話を聞いたが、一度きりの海外旅行については、フィルムを見せてくれるだけだった。旅の音はなく、映写機のフィルムを切り替えるときのカシャという音だけがある。まるで小さな窓から一九六八年の世界をほんの少し垣間見るようである。

孫の私が音楽家になったことは生前知ることはなかったが、この春、祖母の写真を使った展示を予定している。旅先で音を集め音楽を作っている私と、祖母の旅の記録とが交差するようなものになるだろう。回顧的な気持ちではなく、一九六八年の写真と二〇一九年の音とを重ねてみたいのである。

(京都新聞夕刊「現代のことば」第5回:2019年3月7日掲載)

 

 

「音楽と教育」

日々学ばなければいけないことは絶えない。作曲技法を磨くのはもちろん、機材やソフトウェアなど道具の使い方から、他のジャンルの人と仕事とするときの習慣や作法なども学ぶ対象である。関わる作品の背景も知っておいた方がよいことが多い。そのために知識は必要である。

音楽大学出身ではないので、大学で作曲を学ぶ機会は全くなかった。中学生の時に作曲家になりたいと思い、音大を目指してレッスンに通っていたが、当時自分がいた音楽教育環境が肌に合わず、やめた。

教育学部生涯教育学講座に所属していたので、人間は一生涯学び続ける存在、あるいは学べる存在だという考え方を勉強できたのはよかった。また同時に教育ということを広義の意味で捉えられるようになったのも有り難かった。学校以外のあらゆる場所にもたくさんの教育がある。上から下へのベクトルとしての教育ではなく、外の世界と自分との交信である。耳を澄まし、音の動きや音色に意識を向けること。それまで気づいていなかった音を聴くことも教育として捉えることができる。

広義の音楽を作るには教育学部に進んだのはよかったと思う。旋律と和声があるいわゆる楽曲も、旋律も展開もない、音がただ持続する楽曲もどちらも作っていて面白い。たとえば空調の音をどうしたら美しく響かせることができるかを考えることも作曲である。

正直言うと、大学で専門的に勉強したいと思うこともあった。そうすれば即戦力がつき、時間も省ける。ただ自分はそれに向いておらず、遠回りだけれども別の景色を見て音楽・音について考えられた、と思うようにしていた。

小学校高学年の頃、私は国語の勉強として父の前で寺田寅彦の随筆を朗読させられており、その時に出てきた「甲板(かんぱん)」という言葉が読めなかった。約二十年後、ナポリからシチリア島に渡る船で突然その言葉を思い出した。その瞬間、目の前の風景や海鳥の鳴く声、船上の人々の声がどれほど美しく感じられたか。甲板という言葉は長い年月を経て、本当の意味で私の語彙となった。時間がかかることは無駄ではないと信じている。

教育的な、あるいは教育のための音楽を作る意欲はあまりないが、別の文脈で捉えられることは拒否しない。私のある楽曲が、某大学の心理療法に使われることもあった。癒しのために意図して作った音楽ではないが、それで少しでも治療に効果があるのであれば嬉しい。心理療法についても少し学べた。

作曲を「コンポジション」と言い換えれば、それはすなわち構成である。音をどのように配置するか、先に述べた空調の音がその例である。音と音、あるいは音と言葉、映像などとの関係性で作品が生まれる。もう少し広く考えれば、音をあるいは音楽をどのように社会の中で位置づけるかを考えること、それも広義の意味の作曲なのである。

(京都新聞夕刊「現代のことば」第4回:2019年1月10日掲載)